
第1次全国総合開発計画が1962年に策定されると、瀬戸内海沿岸の広大な埋め立て地に15カ所もの重化学工業コンビナートが作られ、たちまち油汚濁が広がりました。68年からたびたび発生し始めた赤潮によって無数の磯魚たちが殺され、東瀬戸内海は瀕死の状態になりました。おりしも71年5月関西地方の若手研究者と学生により結成された「瀬戸内海汚染総合調査団」が瀬戸内海の実態調査を進めようとしていました。海の汚染に危機感を募らせた漁民と市民約25人が71年7月に集い、調査に協力すべく「播磨灘を守る会」(青木敬介代表)を結成しました。
漁民たちは、国が1964年に指定した「播磨工業整備特別地域」の沿岸10ケ所で自ら定点観測を続け、採取した工場廃水の分析は姫路工大の有志が担当しました。これが鐘淵化学工業(現カネカ)高砂工場のPCB垂れ流しを暴き、火力発電所の温排水の拡散を突き止めました。
瀬戸内海汚染総合調査団の同年夏の発足が引き金になり、翌年には「瀬戸内漁民会議」(岡山県児島市下津井(当時))などが相次いで結成され、環境保全運動が広がりました。
海の埋め立て阻止活動は当初、漁民の頑張りで効を奏していましたが、次第に埋立て補償金で漁民が引き裂かれ、姫路、加古川の沿岸に巨大な埋立地(国指定の播磨工業整備特別地域)が広がりました。
1973年には「瀬戸内海環境保全臨時措置法」(78年の見直しで「特別措置法」となり恒久法化)が制定されましたが、漁民らが最も望んだ埋め立て禁止は骨抜きにされました。
徳島、香川両県の漁民が75年に起こした赤潮訴訟では、瀬戸内海汚染総合調査団とともに、同年から播磨灘全域の海水と泥の調査を25年続けて赤潮の原因を究明、裁判の実質勝訴につなげました。1974年の三菱石油水島精油所のタンク破裂で流出した重油処理に小豆島まで出向きました。
その後も、85年をピークに漁獲は減り続けています。漁師の言葉で「海が腐っとる」のです。播磨灘の漁民たちは今、漁船漁業から浅草ノリやカキの養殖に転換し生計を立てています。
渚、千潟の生物による浄化力を失った海には、1970年代後半から魚が住めない貧酸素水域が現れるようになり、今日に至っても発生が見られます。イカナゴやアナゴの漁が盛んであった播磨灘の漁民の意を受け、兵庫県が当時から播磨灘からの海砂採取を全面禁止してきたことが唯一の救いでしょうか。
播磨灘を守る会は1986年、「播磨灘の海よ、よみがえれ」シンポジウムを開催し、参加した漁民から「埋立て遊休地を浜へ戻せ」との提案を受け、以後「磯浜復元」をキーワードに活動を進めてきました。


(両図とも播磨灘を守る会HPより)
播磨灘を守る会代表の青木敬介さん(2019年6月逝去)は、干潟・藻場の埋め立てによる環境破壊を批判し、早くから瀬戸内法を「ザル法」と断じ、「法改正を!埋め立てを止めろ!埋立地をもとに戻せ!そして磯浜復元を!」と主張してきました。海を60年前の本当の海に戻すには、埋め立てを禁止するだけでなく、播磨灘沿岸など多くの遊休埋め立て地を削って、渚に返すことが必要です。
播磨灘を守る会の青木代表は、1990年の環瀬戸内海会議創立に中心的役割を果たし、副代表として環瀬戸の活動をけん引してきました。2003年6月開催の環瀬戸内海会議第14回総会では、青木副代表の起案による「脱埋立て宣言」を採択、瀬戸内法改正運動・署名活動そして国会議員へのロビー活動を進めてきました。
この活動は、2015年の瀬戸内法改正、2021年の瀬戸内法改正へとつながり、21年の法改正時の付帯決議には「磯浜復元」が盛り込まれました。付帯決議とはいえ、「磯浜復元」という文言が国会決議に盛り込まれた意義は大きいと思われます。
環瀬戸内海会議は、瀬戸内法成立50年の節目に『瀬戸内法50年プロジェクト』を立ち上げ、23年に瀬戸内海沿岸各地の全漁協、郵送によるアンケートを実施し、回答を得られた漁協のうち66組合に面談による聞き取り調査をさせて頂きました。その中で、播磨灘海域の漁協では「磯浜復元は必要か」の問いに、全員が「はい」と回答されています。
瀬戸内海も例にもれず「海水温上昇」という「気候危機」のただ中にありますが、閉鎖性水域であり、湾・灘・海峡(瀬戸)が複雑に絡み合い、「魚湧く海」と称された、本来の瀬戸内海を取り戻し次世代に引き継いでもらいたいと願っています。

